統一と前進のためにー七\五アカハタ評論員論文の批判   

   松江 澄     『社会主義革新運動広島県委員会』発行パンフレット 1963年7月

はじめに

 

 一九六三年七月五日付アカハタ紙上に掲載された「原水爆禁止運動の統一と前進のために」と題する評論員論文は、最近における日本共産党のあやまりの典型であるばかりでなく、せっかく前進しはじめた原水爆禁止世界大会の準備を停滞させ、さらに分裂と混乱の危機をもたらしているという点で、とくに注目すべきものであった。「いかなる国の核実験にも反対」の問題を中心としたこの論文は、彼等のいわゆる「右翼社会民主主義者」と「修正主義者」に対する非難と攻撃のために書かれたようであるが、事実は果してそうであろうか。この論文は誰に向けて書かれたものか。

 この中で評論員は「『いかなる国の核実験にも反対』を方針化する態度は、現段階において何よりも日本政府や自民党の方針であり、……現在では何よりも米日反動の日本核武装化と軍国主義復活の

推進をかくす道具となっており、原水禁運動を骨ぬきにする謀略として米日支配層が奨励している方針である」といっている。また最近では、この論文への批判と非難をそらすために、「一部の人びとはことしの世界大会を曲解して、『いかなる国の核実験にも反対』を原則としてみとめるかどうかが中心問題だと主張しています。しかし、これくらい日本のきびしい現実を無視した暴論はありません。

アメリカ帝国主義によって目の前で強行されている核戦争の危険とたたかわないで、こんな空論でひまつぶしをすることがいかに有害であるかは明白です。それは核戦争の元凶を免罪するものです」

(七月十九日アヵハタ号外)といっている。

 いま平和を求める多くの国民は、「いかなる国の核実験にも反対」することを禁止運動の基礎として確認することを要求しているし、とりわけ世界で最初に原爆を受けた広島県市民は、筆舌につくしがたい切実な経験のなかから一層強く要求しているし、また平和達成行脚で最も熱心に行動した宗教者の人々もそうである。この肺騎から出た痛切な主張が「空論」であり、「暴論」だというのであろうか、この人びとが政府や自民党の手先であり、「米日反動の謀略」におどらされているとでもいうのであろうか。この論文の攻撃は決して一部の指導的幹部に向けられたものではない。それは多くの平和を求める国民、なかでも広島県市民、そうじて原水爆禁止運動に最も関心を持ち、また最も熱心である人々に対して向けられた「暴論」である。したがってこうした人びとからこの論文に対して鋭い憤激の批判が行なわれ、殆んど和解し難いような決定的な溝ができつつあるのも理由のあることだといわなげればならない。彼等は結局「天に向ってツバをはいた」のである。しかし、だからといってわれわれはこのあやまちと「暴論」をそのままそっとしておくわけにはゆかない。あやまちは批

判し、「暴論」には正論で答えなくてはならない。

 ここ数年来の日本共産党は二重の誤りをおかしている。一つは「二つの敵」論にもとづくそのあやまった綱領と方針であり、他の一つはそのあやまった綱領、方針を大衆運動とその組織に押しつけることである。

 いままでもこの論文に対する批判はかなり行なわれてきたし、またたとえまとまった批判という形でないにしても、大衆的な非難が行なわれていることは事実である。しかしその批判と非難も、主として平和の運動論の立場からである。こういうことではとても幅広い国民的運動にはならないという、

 

運動を進める上での批判はもちろん重要ではあるが、それはまだ日本共産党の一つのあやまりー大

 

衆運動への押しつけに対する批判でしかない。現在この論文に批判的意見をもっている労働者や平和活動家また社会主義者や共産主義者は、ただ運動論的批判にとどまってはならない。そのあやまった方針そのものに対する理論的な批判が必要なのではあるまいか。そうしてこそ、確信をもって大胆に、多くの市民諸君とともに「いかなる国の核実験にも反対」し、進んで平和共存と全面軍縮の実現に向って運動を前進させることができるのである。

 この文章は日本共産党のあやまった方針のなかで、アカハタ論文の中心をなす「いかなる国の核実験にも反対」の問題に焦点をおき、主としてその理論的批判に向けられたものである。われわれがこれをとりあげたのは、もちろん「空論」でもないし、また話を昔にかえして核実験問題を後向きに論議するためでもない。一つにはこの問題が、現在の原水爆禁止運動と第九回世界大会にとっては「空論」どころかさけることのできない現実の問題であること、また他の一つは、この問題はただ実験が

 

行なわれた際どういう態度をとるか、という具体的問題だけにとどまらないで、と発展方向に深く関連しているからである。

 

現代平和運動の性格

 

情勢評価のあやまりと「現代」のとらえ方

 

 アカハタ論文は最初に、「原水禁世界大会を前にする情勢」として、 一連の情勢分析を行なっている。しかし、実はこのなかにあやまりの出発点がある。

 この論文の筆者は、カナダの核武装、NATOの「統合核戦力」計画、米地下核実験、またわが国へのアメリカ原子力潜水艦「寄港」とF105D水爆搭載戦闘爆撃機のもちこみなどを引用して、「世界全体でもアジアでも、国際緊張は去年とくらべてけっして緩和していないし、核兵器を中心とする戦争準備にはいっそうの拍車がかけられている」とのべている。はたしてそうであろうか、今日の情勢の特徴は国際緊張と戦争準備が一層進行しているということであろうか。われわれはそうではないと断言することができる。

 カリブ海の危機をめぐる国際政治の推移は、今日社会主義体制の発展と帝国主義の内部矛盾の深まりのなかで、核戦争を阻止し植民地民族の解放と社会主義への前進が現実に可能である客観的条件の存在することを実証した。

 もちろん、帝国主義の侵略的な体質は変らず、アメリカ帝国主義は新しい核戦略体制のために懸命の努力を払っている。しかし核兵器の発達そのものが、帝国主義陣営の内部にも平和共存への関心を

増大させる。さらに帝国主義諸国間の矛盾の激化と平和を求める各国人民の抵抗は、アメリカ帝国主義の新しい核戦略体制の実現をはばんでいる。このような情勢のもとで、資本主義の不均等発展によりその相対的地位の低下したアメリカ帝国主義が、その支配を維持するために新しい政策の転換を迫られており、「ケネディ演説」はこのような転換の端緒を示すものであった。

 しかも、平和共存の条件の下で、ヨーロッパの資本主義諸国では、イギリスでの失業者闘争、フランスでの炭鉱労働者の闘争、またイタリア共産党の選挙での前進と政局の左旋回の条件の成熟をはじめとして、労働者階級と人民の闘争は新しい昂揚を迎えようとしている。ヨーロッパには、政治的反動に対する民主主義的反撃と革新のつよまる新しい政治的周期の到来を告げる徴候が現われている。

アジアにおけるアメリカ帝国主義の冷戦体制は、これら諸国の経済的困難の深まりとともに動揺と崩壊の過程にあり、これを再建しようとした「中国封じ込め」政策も、平和、中立をもとめるアジア諸国人民の抵抗によってかれらの意図するようには進んでいない。もちろん平和と社会主義の陣営に有利なこの情勢は、帝国主義陣営内部の諸矛盾を激化させ、そこから戦争と政治反動の逆流がほとばしる危険もなお存在している。にもかかわらず、国際情勢はあきらかに新しい転換の門口に立っている。

今日の情勢の特長は、いくつかの局面と部分では危機をはらみながらも、全体としては平和共存への志向がますますつよまっているということにある。

 こうした情勢の見方についての際立った対立も、一つの根本的な問題での相違から生れたものである。その根本的問題とは何か。それはいくつかの曲折と変化を経ながらも、その時々の情勢を根本的に規定している一つの時代すなわち「現代」をどう理解し、どうとらえるかという問題である。

 われわれは、「現代」の個々の運動の速度や発展の仕方を完全に知ることはできない。しかしわれわれは、どの階級が「現代」の中心に立っているのか、「現代」の主要な内容は何か、「現代」の発展の主要な方向はどこか、また、「現代」の歴史的情勢の主要な特殊性などを知ることができる。このような、「現代」と「前時代」とを区別する根本的特徴を明らかにすることによって、「現代」のすべての歴史的事件の性質を知ることができるぼかりでなく、このことなしには「現代」における正しい方針をうちたてることはできないのである。

 では、「現代」とはどんな時代であろうか、またそれは、「前時代」と比較してどんな根本的特微をもっているのだろうか。

「現代」は大きくは資本主義から社会主義への移行を基本内容とする時代であり、「それは、あい対立する二つの社会体制の闘争の時代、社会主義革命および民族解放革命の時代、帝国主義の崩壊、植民地体制一掃の時代、各国民がつぎつぎと社会主義への道にふみだし、社会主義と共産主義が世界的な規模で勝利する時代である。この時代のおもな特長は、社会主義世界体制が人類社会発展の決定的な要因に転化しつつある点にある」(八十一ヵ国共産党.労働者党声明)。「現代」と「前時代」を際立って区別する根本的特徴は、社会主義と帝国主義、平和と戦争の力関係の変化である。かつて帝国主義と戦争の力は、社会主義と平和の力よりはるかに強かった。しかし戦後の社会主義世界体制の成立と飛躍的な発展、また巨大な世界平和運動の形成は、こうした事情を根本的に変えはじめた。「現代」は、社会主義と平和の力が帝国主義と戦争の力を凌駕し、世界の指導権を握りつつある時代であり、かつては宿命的であった帝国主義の法則に制約を加え、人民の力で平和共存を押しつけ、戦争を阻止する

 

ことが可能になった時代である。したがって、われわれは「現代」を、平和が戦争にうちかつ時代であり、民族の抑圧が民族の自由に敗北する時代であり、社会主義が資本主義にとってかわる時代であるということもできよう。

 

 そうして最も重要なことは、こうした新しい時代ー「現代」は、平和を守るやり方、民族の独立、

 

社会主義への接近と実現の仕方など、われわれにとっての重大な課題の解決の仕方と運動に新しい可能性を生み出しているということである。いや、むしろいろいろな運動での、こうした新しい可能性を追求して運動を前進させるためにこそ、「現代」が他の時代とちがう根本的特徴を明らかにする必要があったのである。たとえば、かつては戦争に反対しきらない、おく病で消極的な、そうしてしばしば帝国主義と戦争勢力に利用されてきた「中立」が、今日では全く反対に、戦争はいやだ戦争には決して参加しないという国民感情の積極的な表現として、社会主義と平和に大きな貢献をする進歩的な役割を果すようになったことを考慮すれぽ全くよく理解することができる。これこそ社会主義と帝国主義、平和と戦争の力関係の変化がもたらしたものであり、日本のような事情の下で、労働者階級と進歩、革新の勢力が確信をもって大胆に提出でき、その実現のために奮闘するかいのある積極的な政策であり方針なのである。

 このような「現代」のとらえ方の相違にこそ「中ソ論争」といわれている現代国際共産主義運動の対立の根本があり、またこの点こそわれわれと日本共産党とを区別する根本的な問題であり、またこのアカハタ論文のすべてのあやまった方針を生みだす根本的な源でもある。

 

 

現代平和運動と社会主義・帝国主義の区別

 

 この論文は、「核実験の問題をたんに生理的有害問題だけに還元して、その社会的政治的意義を無視し、結局、帝国主義陣営と社会主義陣営とを同列視する見解におちいることが正しくないこと」を強調し、それは「その主観的意図いかんにかかわらず、帝国主義を免罪し、民主勢力の弱化や分裂をもたらすものである」とのべている。しかしここに問題がある。

 核実験のみならず、戦争には生理的、人道的側面と社会的、政治的、経済的側面とがある。生理的、人道的側面からいえば、すべての戦争は多くの人々を殺しあるいは傷つけ、国民に窮乏と苦痛を強制する。またその政治的、経済的側面からいえぽ、戦争は全く帝国主義の経済に原因があり、帝国主義的政治の延長としてひきおこされる。この生理的、人道的側面に関してこそ平和運動は成立し、その政治的、経済的原因は革命闘争によってこそとりのぞくことができる。したがって深い関係にありながらも、本来、平和運動と革命闘争とは別個のものである。平和運動は本来平和を守る人道的な運動であり、革命闘争は帝国主義を打倒して人民の権力を樹立し、社会主義に進む闘いであり、したがってまた戦争の原因をとりのぞく運動でもある。つまりこの二つの運動はそれぞれ一つの運動なのである。

 しかし戦前のように、平和運動がたとえ成立したとしてもまだ力が弱く、またたとえかなり大きな運動にはなっても戦争を阻止することが事実上不可能であった時代には、平和のための闘争は、「戦

 

争を内乱へ」というスローガンの下で戦争の原因をとりのぞく革命闘争にその席をゆずった。すなわち、その生理的、人道的側面は不可避的にその政治的、経済的側面と直接むすびつき、主要にはその政治的、経済的側面が決定的な重要さを持っていた。もちろん、こうした事情の下でも、平和と民主主義のための反ファシズム統一戦線に見られるように、戦争は阻止できなかったにしても、独自の平和と民主主義の運動が成立したことは、今日の運動に発展する大切なかけ橋の役割を果したといえよう。

 だが「現代」は戦前とことなって、平和を守ることを唯一の目的とした巨大な世界平和運動が成立し、それぞれの民族と社会の特殊な条件と情勢を生かしながら国際的な一大潮流を形成している。平和共存と全面軍縮をめざすモスクワ平和大会はその最も具体的なあらわれであり、国民運動に発展した日本の原水爆禁止運動もそのあらわれの一つである。こうした情勢は、一つには武器の異常な発達

 

による世界戦争の様相の変化ー戦時と平時、交戦国と非交戦国、戦線と銃後の区別をなくし、一たび戦争がおこれぽ人類に壊滅的な破壊をあたえるーが生まれ、戦争阻止の必要性が決定的となることによってもたらされた。また他の一つは、帝国主義に対する社会主義の優位ーその軍事力も含めてーと、それを中心とした戦争勢力に対する平和勢力の優位による世界戦争阻止の実現可能性によ

 

ってもたらされた。つまり、世界戦争阻止の決定的な必要性とその実現可能性こそ、現代世界平和運動の成立と発展の決定的な要因である。

 いうまでもなく戦争の原因は依然として存在し、その政治的、経済的側面は厳然として存在しており、それに向けられる革命闘争もまた巨大な前進をとげつつある。したがってまた正義の戦争と不正

 

 

義の戦争の区別も依然として重要である。しかし、こと平和を守る運動にとっては、戦争の政治的、経済的側面はかつてのように決定的なものではなく、その生理的人道的側面が決定的なものとなり、この二つの側面はかつてのように直接結びつくのではなくて、平和運動の独自の目的と性格によって、世界戦争阻止と恒久平和の樹立という実現可能で高貴なヒューマニズムの理想に向って巨大な前進を

 

とげるようになった。ここではかつてのように正義の戦争と不正義の戦争の区別ーまた正義の核実験と不正義の核実験の区別もーのべたてるだけではすでに有効でなく、社会主義と帝国主義の区別

 

が必要なのではなく、すべての核実験をやめさせ、すべての核武装と軍備をやめさせ、戦争を阻止することこそが決定的に必要なのである。

 それでは、このようなヒューマニズムの目的に限定された現代平和運動は、社会主義をめざす革命闘争にとって無縁なものであろうか。この二つの運動は別個の運動で、何等の関係もないのであろうか。もちろんこの二つの運動は別個の運動であり、直接には何の関係もない。しかしそれは内面で深く関連し合っており、現代平和運動の発展と成功は社会主義をめざす革命闘争にとって重大な関係がある。

 平和運動は「現代」では戦争を阻止することによって、帝国主義の法則を制約し、その牙を弱め爪をぬくことになるだろう。革命闘争は帝国主義権力と闘いこれを打倒することによって、帝国主義の法則そのものを地球上から退場させることになるだろう。平和共存は、一方では社会主義の発展とその思想的、政治的、経済的影響の拡大を保障するとともに、他方では戦争という脱出口をせきとめられた帝国主義の内部矛盾を激化させ、その一層早い改革的革命的解決を促進する。革命運動の発展は、

 

 

平和共存の下で一国ごとに次々と資本主義と植民地主義からぬけだし、やがて全世界が民族自決の下

 

で新しい社会ー社会主義社会になることを可能にするだろう。こうして、帝国主義の法則を制約する運動と、帝国主義の法則そのものを世界の舞台から退場させる運動が、高い目的ー新しい幸福な人類社会の建設ーで統一し、深く関連するのである。こうして現代平和運動と現代革命運動は高い

 

次元で再統一するのである。そこにこそ、われわれ共産主義者と労働者階級が、階級闘争と革命運動に献身すると同時に、現代平和運動の中で幾万、幾百万、幾億の人々とともに無条件に団結して闘う理由があり、したがってまた社会主義と帝国主義の区別にあくせくとしないで、大胆に確信をもって「いかなる国の核実験」にも反対してこれをやめさせ、すすんで全面軍縮の達成にむかって、その先頭に立つ理由がある。

 日本共産党は「現代」を理解せず、「現代」とすでにすぎた時代の区別の根本的特徴を理解せず、従ってまた「現代」のもたらした新しい可能性を追求せず、あいかわらず古い公式と教条を新しい事実にあてはめようとしている。ここにわれわれとの相違があり、ここにこそそのあやまりの根源がある。

 

 

「いかなる国の核実験にも反対」するのは単に素朴な「大衆感情」か

 

 この論文には一つのおとし穴がつくられている。それは、「いかなる国の核実験にも反対」問題といいながら、実は、ソ連への抗議即ち反ソ、反社会主義という公式でおきかえている。しかし事実は

 

果してこうした公式の正しさを示しているであろうか。またこの論文の筆者は、「いかなる国の核実験にも反対」は素朴な「大衆感情」でそれ以上のものではなく、従って帝国主義者に利用されるといっているが、果してそうであろうか。

 最も重要なことは、「いかなる国の核実験にも反対」というこえは、たしかに素朴な「大衆感情」であるとともに、また決してそれだけではないということである。この論文のもう一つのおとし穴は、「いかなる国の核実験にも反対」を方針化せよといっている人々は、ただそれだけを目的にし、他のことは何一つ主張していないかのようにとりあつかっているところにある。しかし事実はそうではない。「核実験反対」を強く要求する多くの人々は、同時に、「いかなる国の核実験」をもやめさせるための一連の合理的な計画を考えているし、また主張もしている。核停協定の締結と全面軍縮の要求がそれである。いや逆にいえば、核停協定の締結と全面軍縮という原水爆禁止にいたる合理的、計画的解決への基調として、「いかなる国の核実験にも反対」することを強く求めているのである。かつて原水協がこれを一つの重要な基調として採用したとき、共産党もまた進んで賛成したのもそうではなかったのか。それとも今も当時も一貫して、米核実験反対=反米、反帝運動=民族解放革命という誤った公式を押し付けようとしていたのか。

「いかなる国の核実験にも反対」という要求は、日本国民、とりわけ広島県市民の痛切な経験からにじみ出た歴史的な「大衆感情」であるとともに、戦争阻止、従ってまた原水爆廃棄の実現可能性が眼前にひらけている「現代」では、核停協定の締結から全面軍縮へと進む法則的発展を内包している要求であり、従ってまた世界平和運動へ合流する日本的な運動の要求でもある。われわれは世界の物質

 

的構造が変化し、社会主義と帝国主義、平和と戦争の力関係が逆転しつつある情勢の下で、この「大衆感情」と要求の中に法則を認識し、その中に含まれている発展的な契機を全国民とともに運動の中で引き出し、平和共存と全面軍縮の実現にむかって共に前進しなけれぽならない。日本共産党はこの「現代」のもたらした法則的発展を認識せず、この要求の積極的契機を理解せず、また従ってその言葉にもかかわらず大衆を信頼しない。ここにわれわれとの相違があり、ここにこそ誤りの根源がある。

 またこの論文は、「原水爆禁止を唯一の目的とする」ことの誤りを強調している。即ち筆者は、「この一見もっともらしい主張が、日本の核武装を阻止する具体的課題をうやむやにする危険をもっていることを見ぬくことはむつかしいことではない」とのべている。しかし、 「原水爆禁止を唯一の目的とする」ことは誤りであろうか。またそのことは、「日本の核武装を阻止する具体的課題をうやむやにする」ことになるだろうか。

 第一に、この運動は「原水爆禁止を唯一の目的として」生まれたものであり、現在でもそれを唯一の目的としており、将来もまたそうするであろう。「原水爆禁止を唯一の目的」とすればこそ、そのために「いかなる国の核実験にも反対」してやめさせようとしており、またそのためにこそ核停協定の締結と全面軍縮の実現をめざして今後とも運動をすすめるであろう。そうしてその目的のためにこ

 

そー民族解放革命のためにではなしにー当然、日本の核武装化に反対してこれをやめさせる運動

 

をおこすべきだし、また現におこなってきた。しかし第二に、この運動は広島、長崎、ビキニの経験に深く根ざし、その規模と深さからいって日本の平和運動の最大のものであり、また従って最も重要な運動ではあるが、日本の平和運動の一つであってそのすべてではない。それはその出発において一

 

 

定の歴史的制約を受けており、また統一行動組織としての一定の組織的制約も受けている。従って日本の核武装化に反対する運動にも一定の制約と限度があることも当然である。

 日本の原水爆禁止運動が、他国の核実験や核武装に反対するばかりでなく、まず何よりも自国の核

 

武装と核兵器の持ち込みー当面の「原潜」や「F105」はもちろんーに反対する運動をおこすこと

 

は、「被害国から加害国になろうとしている」現在とくに重要である。この際とくに考慮すべきことは、この事実と意味を広く国民に知らせることであり、「原水爆」につながる立場から、これを許す日本政府にそのほこ先を向けることであり、また誰でもが参加できる国民的な反対運動と抗議形態ですすめることであろう。

 われわれは、この運動が今まで果してきた大きな役割を理解し、今後とも一層大きな積極的役割を果すことを心から期待している。そこで重要なことは、この運動と組織に何もかも持ちこむのではなく、もっとも広く平和に関するすべての問題にとりくみ、日本の平和運動の前進に貢献するための、職場や地域での自主的平和組織とその運動がどうしても必要だということである。このような自主的な平和組織とその運動の発展は、原水爆禁止運動とその組織をまた一層発展させることになるだろう。

ところが日本共産党はこの区別を理解せず、また形式的には区別しても実際には原水協の内部組織とすることによって、事実上平和に関する問題なら何でも原水協に持ちこんで混乱をおこしている。ここにわれわれとの相違と彼等の組織的な誤りがある。

 

 

おわりに

 

この論文は以上の論点の外に核禁会議ついてもふれている。しかし原水爆禁止運動に深い関心をもっている誠実な平和運動家なら、その経験をとおして核禁会議の中心幹部がどのようなものであり、この組織が何をしてきたか、また何をしようとしてきたかをよく知っている。われわれもまたこの組織の中心幹部が札つきの反共主義者であり、この組織の果たしてきた、また現に果している分裂的役割をよく知っている。この組織が、それに参加している人々の主観的意図のいかんにかかわらず、事実として平和運動と原水爆禁止運動の発展を喜ばない人達に歓迎され、従ってまた利用される結果となっていることは明らかである。

しかし、この組織の中心幹部と参加者を同日に論ずることは正しくない。この中には、よく事情は理解できないにせよ、原水協への批判から反射的に参加した人々もいるだろうし、また多くの人々が、その人々の属する固有の組織が加盟したために参加したことになっている場合もあるだろう。従ってわれわれは幹部についてはきびしく批判しながらも、多くの大衆的参加者に対しては再統一のためのよびかけを大胆に展開し、ことあるごとに統一行動をうったえる必要がある。原水爆禁止を中心とした統一行動の発展こそ、原水爆禁止運動の国民的な発展を保障する唯一の道となるだろう。

また核禁会議に関連して重要なことは組織の分裂と統一についてのとら方である。原水爆禁止運動と平和運動の発展を喜ばないものは、いつでも機会を見つけて運動を分裂させようとしてきたし、

 

またこれからもするだろう。従ってわれわれは常にそれを警戒し、その意図をたえず具体的にバクロ

 

する必要がある。しかし同時に忘れてならないことは、分裂が必ず内部の矛盾ー誤った方針や方針の押しつけ、そうじて指導部と大衆との遊離ーを通じてあらわれるということである。そこで分裂

 

をおこさせないためには、組織と運動の性質をよく理解し、大衆の感情と動向をよく見きわめ、正確な要求と政策で一歩一歩前進することである。原水協のような、統一行動組織の場合にはなおさらそれが必要である。この点で、もし現在の原水協に分裂の危機があり、世界大会に混乱のおそれがあるとするならば、正にその主要な責任は日本共産党が負わなけれぽなるまい。

 原水爆禁止運動の歴史的使命はまだ決して終っていない。それどころか、この歴史的な、そうしてすぐれて日本的な平和運動は、平和共存と全面軍縮をめざすことで国際的に統一している世界の平和運動に、今後とも大きな貢献をすることができるだろう。われわれがこの運動の歴史的経過をよく知り、その性質を充分理解し、平和をもとめる国民の要求とその本質を洞察することができるならぱ、この運動が発展する条件と情勢はますますひらけてくるし、従ってまたこの運動が大きく発展することを期待することができるであろう。

 この運動の発展が困難であり、この論文の筆者がいうように「困難の真の原因」があるとするならば、それは外ならぬ日本共産党そのものであり、その誤った方針と大衆組織への押しつけから生れたものである。

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一共産主義者の体験―「八・六」の歴史から(1

    松江 澄   「マルクス主義」1965年7月 (社会主義革新運動機関誌) のちに『ヒロシマから』-原水禁運動を生きてー松江 澄著 青弓社 1984年7月発行

 

 

 

 戦後における広島の原水爆禁止運動あるいは平和運動の歴史を書くということは、一つの大きな事業である。それは世界で広島と長崎以外では経験したこともない原爆の廃墟から立ち上り、二十年間歩みつづけた幾千、幾万の人々のたゆみない活動の足あとであり、一つの新しい都市の誕生とその歴史でもあるからである。それは一人の人間がこれから生きてゆく以上に、その生きてきた歴史を書くことがむずかしいように、困難な仕事である。しかし生きてゆくためには、そうしてとくに生きてゆくことが困難なときに、そのすぎてきた過去をふりかえって新しい道を探求するのと同じように必要なことでもある。被爆二十周年はそれを要求している。

 広島の平和運動の正確な歴史をかくことは、ただ広島の問題としてだけではなくて、被爆国民の平和運動のいわば発展と矛盾の集中点でもあるという意味で重要である。とくにあまり知られていない占領下から朝鮮戦争時の運動についてその正確な記録をとどめることは、文書として残っているものが少ないだけに早くから求められていた。共産党中国地方委員会では六全協後まもなくこの歴史をまとめることを決定し、当時地方常任委員でもあり、また当初から何かと任務の上でこの運動の中心的な位置にいた私を責任者に任命した。広島で生れ広島で育ち、原爆でたった一人の兄と母を殺された私にとっては、原水爆禁止と平和の運動の歴史をかくということは単に仕事のためという以上のものがあった。しかし、歴史を書くことより目の前の運動に追われて果さず、この歴史の発掘に多くの年月をささげられた広大今堀教授に知っている限りの事実と資料の拠り所を提供し、教授は他の多くの資料とともに、『原水爆時代』(三一書房)の中に書きこまれた。

 しかし私としては、初めて書かれたもの乏して資料的にも歴史的にもきわめてすぐれた価値をもつ今堀教授の著書に、自分の任務を解消するわけにはゆかなかった。やはり当時の責任者の一人として、内側からの反省をとおして将来の運動へ足がかりを見出すためにも、書かなければならないという声がたえず耳の中で鳴り続けていた。この気持ちは四年前除名され離党して「社会主義革新運動」をはじめてから、資料的にはますます困難になりながらも、かえってその必要さが痛感された。一昨年来の分裂と再建という原水禁運動の課題は、今まで以上に過去の運動の総括を要求している。それはこの運動の歴史の中に、昨日の分裂の根拠も明日の統一へのカギも潜んでいるように思えるからである。

 二十周年にはと思いながらも忙しさにとりまぎれ、今、ヘルシンキ大会の代表としてその準備に追われながら、急いでメモのようにごくその一部を書きつづってみた。もちろん年月も経っていることでもあり事実の点で記憶違いもあるかと思うが、それは当時の事情を知る人々によって訂正して頂きたい。またこれは戦後広島の平和運動の中の第一回世界大会までの「八・六」を中心にした概括的なメモであり、しかも狭い私の体験の範囲に限られている。これはいわば私の反省のためのメモでもある。

 

 

 

 

 戦後広島の平和運動は三つの時期に分けることができる。第一の時期は一九五一年までであり、これは占領下とくに朝鮮戦争時主として党を中心に運動が進められていた時期である。第二は五二年から五四年の百万署名運動を経て第一回世界大会がひらかれるまでで第三の時期への過渡期であり、党のこの運動に対する空白期でもある。第三の時期は第一回世界大会後から今日に至るまでである。大きく分ければ五四年を境に前史と後史に分けてもよい。

 戦後広島で最初に民主団体が公然と、しかもかなり大きな平和集会をひらき、原水爆禁止を宣言の中で初めてアピールしたのは四九年十月二日の平和擁護広島大会である。

 被爆後の広島では、原爆から立ち直ること自身が大変な仕事であっただけではなく、原爆についてふれることは占領軍によってタブーとされていた。当時私のいた中国新聞社に対しても呉の軍政部から、原爆に関する写真を一切差し出すようにという通達があった。また当時の占領政策として、「平和のための原爆」というPRが自然のようにささやかれた。こうした事情の下で、アメリカと結びつきの強かった流川教会の谷本牧師の「ピース・センター」建設運動がおこされ、ララ物質を被爆者へ送ることが促進された。結局「ピース・センター」はできなかったが、同じ谷本牧師の提唱するアメリカとの「精神養子運動」は、「アメリカの良心」をなぐさめる恰好の運動となった。広島市は初め平和復興祭と銘うって「八・六」を中心に記念行事を行なったが、多くの身寄り、知人が死んだのに祭でもあるまいと市民の非難を買ってとりやめとなった。今日までつづく慰霊式典で市長の平和宣言が初めて発表されたのは四七年の「八・六」からであった。相生橋たもとの平和広場で行なわれる式典には呉の軍政部からも米軍代表が参列してメッセージをのべ、空には米軍の飛行機が舞っていた。もちろん今日のように多くの人々が集まるということもなかった。

 当時、労働運動は目ざましく発展し、民主団体を含めて生活や権利を守るための広範な共同闘争も急速に組織されたが、原爆と平和の問題を直接とりあげることもなかったし、また平和運動のための固有の組織もつくっていなかった。

 四九年六月十五日から一カ月、広島県で戦後最大の労働争議である「日鋼闘争」が始まった。当時県労協会長であった私は、共闘委員長として闘争指導の責任ある位置にあった。連日一万人に近い労働者が「日鋼」へ動員され、市内外は騒然とした。最後には工場を包囲する三千人の武装警官と衝突し、闘争は一カ月つづいた。経験の浅い私は、もし革命というならば、それはこういうものだろうかと思うほどであった。ちょうど同じ時期に、国電事件、平事件が相ついでおこり、その後まもなく三鷹、松川事件がおきた。争議最中にはソ連からの帰還者を迎え、親兄弟をそっちのけにしてともに歌う革命歌は駅頭にこだました。この闘争は、分裂政策によって敗北し、これを契機に県下の労働組合戦線も分裂した。ついでのことながら、私は国会考査委員会に呼びだされたが、当時の党の考査委員会委員は神山茂夫氏で、私に柄の悪い野次をとばした自由党の委員が後に労働大臣になった大橋武夫、吉武恵市であった。私と十数名の同志、活動家はまもなく建造物侵入不退去罪で起訴された。この闘

 

1949102日にひらかれた戦後はじめての平和擁護広島大会のポスター。筆者が福井画伯に依頼した(鳩はピカソの鳩)〔広島県県史編纂室提供〕

 

争についても記録は残っていない。次の機会に是非とも私の知っている限りでも書きとどめておきたい。何故ならば、この闘争は当時国電、平事件とともに三大事件の一つであるというだけではなくて、当時の党の「産業防衛闘争」「地域人民闘争」の典型として事実と経過を明らかにしておく必要があるからである。

 この年の八月六日には、広島市が主催して、出来たばかりの平和記念都市建設、法制定記念の集会がひらかれ、党代表も挨拶をのべた。さてこうした激烈な日鋼闘争の後、中国地方委員会は国際反戦デーに当る十月二日に広島で平和大会を組織することを私に課した。この年パリで平和擁護世界大会がひらかれ、その日本版として四月東京でひらかれた平和擁護日本大会に呼応して広島でもひらこうというのがその理由であった。

 福井画伯に頼みこんで「ピカソの鳩」のポスターをつくり、オルグにかけあるいた。婦人会の前身である母子愛育会の会長も議長をひきうけ、当時まだ党に入っていなかった峠三吉君、また広大の今堀教授等も私と一緒に議長になることを承諾してくれた。広島市もその外郭団体である平和協会の名で協力と後援を約したが、直前になって軍政部の圧力でことわってきた。地区労へも動員をかけたつもりだったがそう沢山は集まらず、三、四百人くらいすわれる女学院講堂がほぼ一ぱいであった。

 今から考えると妙な話だが、広島の平和大会として最も幅広いスローガソであるはずの「原爆禁止」がかかげられず、それに比べれば狭い政治的なスローガンである「反ファッショ・民主的権利の擁護」が強調されていた。これは占領軍によって「原爆禁止」のスローガンが許されなかったことと、数カ月前の日鋼争議の強烈な経験がそうさせたものであった。われわれは予め準備し、比治山中学校三年生の山根君に被爆体験を話してもらい、それをうけて婦人の同志から緊急動議を提案して「原爆禁止」を決議し、大会宜言の終りに原爆禁止を世界に訴えるアピールを加えたが、これが日本の平和大会で最初の核兵器禁止アピールとなった。

 

 

 年が明けて五〇年三月、ストックホルム・アピールが発表され、この署名運動が党を中心に開始された。「世界で最初に原爆を使用する政府は人類に対する戦争犯罪人とみなす」というこのアピールは広島市民にとっては理屈なしに受け入れ易いものであった。後のベルリソ・アピール(五大国は平和協定を結べ)の署名よりはるかに多くの署名がまたたく間に集まった。 一月の「コミンフォルム批判」

と「五〇年テーゼ草案」をめぐって、いわゆる「五〇年分裂」はすでに事実上始まっていた。われわれは党員の眼からかくされていた「コミンフォルム第一回会議報告」を秘密の党内資料で初めて読んだ。私をとくにとらえたのは戦後直ちに平和擁護闘争の重要性を指摘した「ジュダーノフ報告」だった。この「報告」と、コミソフォルム第三回会議の報告・決議はこれ以来われわれの平和運動のテキストとなった。最も幅広いはずの「平和を守る会」が民主主義擁護同盟の一加盟団体になっていることの誤ちを指摘した世界大会委員会ラフィヅト書記長の批判的書簡が日本に寄せられたのもこの頃だった。われわれは全国に先がけて幅広い平和擁護委員会を組織する方針をきめ、先年パリでひらかれた平和擁護世界大会に出席された大山郁夫氏を迎えて平和の大講演会をひらいた。翌日平和の関心の強い各階各層の代表的な人々をまねいて大山氏をかこむ懇談会をひらき、この席上で集まった四十名ばかりの人々の同意の下に広島平和擁護委員会を結成することを決め、世話人会を選出した。数日後ひらかれた第一回の世話人会で、私と広大佐久間教授、四竈牧師、菅原氏(仏教関係)が常任幹事に選ばれた。

 この年初めて民主団体による八・六平和大会が計画され準備された。ポスターは私がひきうけ党から東京へ依頼してつくらせ、天道氏がもって帰ったが、果然ポスターに印刷されていたストックホルム・アピールが問題になった。私は地方委員会に相談したが、やはりこのアピールこそ今年の「八.六」の中心で、断じて妥協すべきではないということになった。最後にひらかれた常任幹事会で私を支持したのは菅原氏だけだった。佐久間、四竈両氏は、ストックホルム・アピールではなく、ただ「原爆禁止」こそ広島の八・六大会の唯一のスローガンであるべきだと主張した。私は頑固にス・アピールに固執し、長時間話し合ったがきびしい対立はとけなかった。佐久間、四竈両氏は、「決して分裂ではない、私達は身を引くのだ」といってたもとを分った。その後佐久間教授は広大内に平和問題研究会をつくられ、これは後に学外に出て平和問題懇談会に発展した。四竈牧師はキリスト者平和の会をつくられキリスト教内外の平和運動に専念された。こうしてできたばかりの平和擁護委員会は「八・六」を前にして事実上分裂し、それ以後委員会は有名無実となり党の平和運動の道具になった。

 党中国地方委員会は「八・六」にそなえて、被爆の実相をバクロする写真を特集した「平和戦線」を発行し、全国の党組織に配布した。それは弾圧を覚悟しての発行であり、「平和戦線」はこれを最後にアカハタ類似紙ということで停刊命令を受けた。当時の意図はアメリカ帝国主義の残虐性のバクロにあったが、なお放射能の問題はあきらかにされなかった。

 朝鮮戦争でGHQは一切の集会を禁止した。その後、広島でも党の組織的分裂が明らかとなる中で、最初の、そして困難な「八・六」を迎えることになった。臨時中央指導部は中国地方委員会を圧倒すべく、全国から八・六集会への参加という名目で党内外の活動家と青年を広島へ送りこみ、五日の日は朝から晩まで次から次へと事務所へ押しかける臨中派を一人一人きびしく査問追求する大わらわの中で、明日の非合法ビラ配布と非合法集会の準備をするという状況であった。この追求の中で、臨中派は「徳田テーゼ」のいわゆる「中立」的な立場に立って「朝鮮から手を引け」という方針らしいこともわかったが、これに対して専ら国際連帯の立場から反帝反戦を主張する中国地方委員会の態度はきわだっていた。

 公安委員会は新聞折込で「不穏な集会」への警告号外を配布し、呉の軍政部は私を呼び出したが無視することにした。六日の当日は重要個所にはほとんど十メートルおきに武装警官が配置された。われわれは陽動作戦で警官隊をあざむきつつ福屋百貨店の屋上からと若干の映画館の中でビラをまき、八丁堀ついで駅前で瞬間的な集会をひらき、警官がかけつけるまでに解散し汽車に乗って散るという手はずであった。私は徳毛君とともにアジトで指導することになったが、時計を見ながら、サイレンの音に、すわ弾圧かと耳をすまし、伝令がくるのを今か今かと待ったが、ビラが多少かたまって落ちた以外はほぼ予定通り成功し、逮捕者もなかった。

 このビラの内容は、原爆の使用禁止を訴えるとともに、朝鮮戦争反対を中心とした反帝反戦ビラであった。臨中派は海田の寺で小集会をひらいたにとどまった。

 こうして広島での最初の「八・六」は、非合法ビラと非合法集会ではじまり、八・六運動は生れおちるときから、アメリカ占領軍と政府のきびしい弾圧と圧迫の中で闘われた。また最初の「八.六」

がアメリカ帝国主義に反対して反帝反戦を主張する中国地方委員会と、朝鮮戦争のもとでアメリカ帝国主義との対決をさげて中立・平和を主張する臨時中央指導部との対立と分裂の中で行なわれたことも記憶にとどめておく必要がある。

 この年の十月五日、丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」が広島で初めて公開された。私達は丸木さん達に協力してあちこち適当な場所を探したが、占領軍に気兼ねして貸してくれる会場がない。そこで、早くから建てられていた原爆ドーム南どなりの五柳荘を借りることになった。僅か二十坪足らずの木造の小屋のなかに柵と通路をつくってにわか展示場にした。"幽霊""""水”のテーマで画かれた三部作は、日が経つにつれて増える来場者の前にあの日を再現した。なかには、耐えかねて途中で立ち去る人もいた。生と死をさ迷う人間を画くその圧倒的な表現は、人間を否定し人間を破壊する原爆を憎しみにもえて告発していた。

 

 

 

 五一年、臨時中央指導部側は全面講和愛国運動協議会を組織し、講和投票に全力をそそいだ。中国地方委員会は反帝反戦の平和運動に全力をそそぎ、「八・六」を早くから計画的に準備した。平和擁護委員会はすでに事実上解体し、それはほとんど党そのものであった。そこでわれわれは一層自覚的で一層活動的な「平和闘士団」の組織化によって平和運動再建の中心をつくることにした。この発想は、私の記憶では当時のフランス平和闘士団から得たものであった。職場と地域に党細胞を中心に活動家を結集して闘士団をつくり、春には広島医師会館で中国地方平和闘士団の結成大会を行ない、私はその責任者となった。

 前年の八月に初めてつくられた平和擁護日本委員会も党の分裂を反映した。われわれは講和運動に力をそそぐ日本委員会に対抗して本来の反戦平和運動を積極的に推進するための全国センターとして日本委員会内部に「平和問題懇談会」をつくり、私は武井昭夫君とともにその責任者となった。三月東京でひらかれた平和擁護全国代表者会議では当然のことながら、われわれと臨中派とが真向から対立し、私や武井君はその中心的な役割をにない、当時産別議長でこの会議の議長の一人でもあった吉田資治氏等と激しく対立した。

 四月の県会選挙では私がはじめて立候補し、「人民の敵」というステッカーがはられている市中を内藤同志等と三、四人で、大きな赤旗をなびかせた自転車でかけあるき、もっぱら平和と原爆反対を訴えてまわった。

 広島の「八・六」は全国統一委員会もきわめて重視し、中国地方委員会を中心にしたこの大会の成功に期待をかけていた。以降、地方、県、地区各委員会はこれだけにといっていいほど全力をあげて準備した。「八・六」へのステップとして「七・七」再軍備反対中国地方労働者会議が計画された。これは当時西ドイツの再軍備に反対してひらかれた西ドイツ再軍備反対ヨーロッパ労働者会議からの発想であった。この会議は、日鋼闘争以来労働組合戦線が分裂する中で県労協の最後の拠点となった国労第二支部、三菱広船等を中心に準備され、七月七日広船の組合会議室でひらかれた。しかしすでに組合として公式に参加できるのはそんなに多くはなく、職場代表者を含めて約五、六十名の集会であった。ここでは再軍備反対闘争が中心的に討議され、「八・六」へ向けての積極的なとりくみがきめられた。この会議の状況はモスクワ・北京放送で伝えられ、われわれの志気を大いに鼓舞激励した。

 七月一日には党の指導の下で全県一斉に朝鮮戦争反対の反帝ビラがまかれ、政令三一一号違反で五十六人が起訴された。七月から八月にかけて当時上柳町にあった私の家は「八・六」への協力のため次々と中央から来広した同志の人々の宿泊でにぎわった。まず出隆教授、つづいて阿部行蔵牧師、さらに鈴木共子、宅孝二、園部三郎氏等であった。出教授は数度にわたる講演会で、病身を無理して平和のために夜おそくまで歩かれた。七月二十八日の阿部牧師の荒神小学校講堂での講演会は警察の圧迫で、集まったのは数十名足らずの活動家にすぎなかったが、ガランとした講堂に気迫をこめた阿部牧師の演説がひびいた。八月一日には園部氏等によって「八・六」記念の慰霊音楽会を準備したがGHQの圧迫で会場を次々にことわられ、またしても五柳荘を会場にして警察のきびしい圧迫のもとにひらいた。しかし集まった二百名ばかりの熱烈な聴衆に支えられて、バラックのなかでの鈴木共子氏のバイオリン、宅孝二氏のピアノ、園部三郎氏の解説によるこの音楽会は、世界のどこのどんな立派な音楽会も与えることのできない崇高なヒューマニズムで全参加者の胸をつらぬいた。

 この年の「八・六」は度重なる公安委員会との交渉の結果、屋内集会の許可をかちとり荒神小学校講堂を会場に借りた。対立する県連協側は日教組中央委員会の開催を機会に児童文化会館で別の「八・六」集会を計画した。

「八・六」当日は広島を中心に中国地方の党員、活動家、青年および全国各地からはせ参じた統一委員会系の活動家約一千人が結集したが、公然と労働組合として参加したのは国労第二支部だけだった。

トラックにのって会場前をゆききする武装した警察予備隊にそなえて、入口は机でバリケードをきずき監視が立った。臨時中央指導部からは鈴木市蔵氏が広島の村上経行氏等とともに挨拶を申し入れ、われわれはこれを認めた。私が司会して会議は挨拶から始まった。

 臨時中央指導部を代表した鈴木市蔵氏に対して、中国地方委員会を代表した内藤同志が今でも話に残る大熱弁をふるい、挨拶はしばしば拍手で中断され、終ったときには共感と支持をこめた万雷の拍手で臨中派を圧倒した。型通りの進行の中で唯一つ若干の討論が行なわれたのは「平和の統一戦線」の問題だけだった。平和の一点での幅広い統一と党の独自の反帝闘争との正しい結合を中心にまとめた私の集約案が決定されたが、後できけば、鈴木市蔵氏は賛成し、村上経行君は反対し、臨中派では意見の対立があったときいている。大会終了後、駅前まで禁をおかしてデモをしようという熱心な意見があったが、挑発にのるなということであり余るエネルギーは数回にわたる校庭のデモで漸く発散されたが、ほとばしるエネルギーは遂に街頭にまで及んだ。こうして二年目の「八.六」は社会党と共産党との対立する二つの集会、共産党内の対立する二つの組織の分裂状況の中で行なわれた。

 この「八・六」集会はいわば中国地方委員会の一年にわたる活動の総決算であったし、党内闘争の成否をかけたカンパニアであった。このカンパニアの成功によって、広島と中国地方に関する限り理論的にも実践的にもわれわれが圧倒的な優位を占めたかに見えた。こうしてわれわれがこの成功を祝い、確信をもって次の活動と闘争にとりくもうとしていた八月十四日、モスクワ放送がわれわれを分派と断定し、臨時中央指導部に統一すべきだというコミンフォルムの意向を伝えたとき、私は呆然とした。幾日も幾日も考えたがわからなかった。しかし五〇年問題によっていわゆる「党中央の権威」に疑問をいだき確信をもって闘った私にとっても、わからぬながら「国際プロレタリアートの権威」は絶対であった。私は内藤同志とともに、「誤っていたかどうかはしらぬが、少なくとも対抗的な党内闘争は対立を一層激化させた」という自己批判書を提出して臨時中央指導部へ復帰した。復帰の際示された綱領は民族民主革命の五一年綱領であった。この綱領に批判と疑問を持ちながらも、五〇年闘争の挫折は心の奥底で何か不安定なかたまりのようにつかえ、私は五二年の秋から表の県委員長として再び党の決定に忠実な党員として活動を再開した。だが、民族民主革命の綱領の下で党の平和運動へのとりくみは断絶し、したがって党によって専ら推進されてきた「八・六」の歴史もその継承が断絶した。しかし広島の「八・六」の灯はたえることなくかかげつづけられた。

 

 

 講和後初めての五二年の「八・六」は、初めて屋外集会が許可され、遠くからの警察の警戒の下で平和資料館の南側広場でひらかれた。当時すでに実際の指導は裏で行なわれ、五一年綱領に真に忠実な党の中核はひそかに形成されていたようであった。集会は自労を主体に僅か三百人くらいで、峠三吉君が議長として元気な姿を見せた最後の「八・六」となった。資料館の下では、この年の春、川手、峠、吉川君達によって初めて組織された「原爆被害者の会」が被爆者の人々に参加を呼びかけていた。

 五三年は「世界の平和は話し合いで」というブダペスト・アピールを中心に、県労はじめ民主団体や日中貿易促進会なども加わった実行委員会がつくられ、平和広場(現市民球場)で中国地方からの参加も含めて約三、四千人の「八・六」集会がひらかれ、原爆当時の未公開フィルムも屋外で写された。

しかし秘密裡に中核自衛隊を組織して実力闘争を進めながら民族革命の準備に追われていた党にとっては、原爆禁止の平和運動は何の意味ももたなかった。平和運動に熱心な若干の党員だけが党の眼をぬすんで平和のために活動した。やがて私も総点検運動の網にかかり、翌五四年春には意見の相違を理由に機関から追放され、以後一党員として平和運動に専念したが監視の眼はたえず光っていた。私は五〇年以来別れていた佐久間教授と再会し、六月にひらかれる予定のストックホルム平和集会のための運動を手をたずさえて準備した。佐久間教授を中心に平和集会世話人会を組織し、この会は戦後初めての原爆対外紹介文書である『八時十五分』を編集し、翻訳して国外にも送った。

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広島市公会堂(平和公園内)で開かれた第一回世界大会の議長団。挨拶しているのが浜井広島市長,その右が安井日本原水協理事長。

 

 一九五四年三月一日、ビキニの米核実験と福竜丸事件は全国民とくに広島県市民に大きな衝撃を与えた。「ビキニ」によって呼びさまされた「ヒロシマ」の原体験は爆発的によみがえった。婦人会と若干の大学人のイニシアによって杉並に呼応した百万署名運動が全県を波のようにおおい、「八・六」までに八十九万の署名が集められた。それは最早党の手の届かぬ、はるかに広く深い「ヒロシマ」の心に依っていた。五四年の「八・六」大会は、原水爆禁止署名運動連絡本部が中心となり慰霊碑前で一万人以上を集めてひらかれた。

労働組合は婦人会の要請で赤旗を持たずに参加するか否かで長時間討論しついに赤旗なしの集会となった。八月二十七日には署名は百万を突破した。明けて五五年一月、東京八重洲口の国労会館でひらかれた署名運動全国協議会では、すでに広島で支持されていた世界大会開催の森瀧提案が満場の拍手で採択された。

 第一回世界大会の準備がはじまり私は現地本部の佐久間事務局長とともに一切を大会準備に集中した。「八・六」のさなかに「六全協」の報告をきいたがあいまいでよくわからなかった。私がほんとうに「六全協」の意味を知ったのは、その後突然帰広した内藤同志が何よりも先に私の自宅を訪ねてくれたときだった。

 大会は成功した。被爆者に初めて正しい位置が与えられ、この大会の画期的な意義は、言葉ではなく、公会堂の会場をうずめた満場の代表者達の中でジーンというほどしみわたった。私は舞台の袖で、最後にうたわれる「原爆許すまじ」をききながらむしょうに涙があふれでるのをどうしようもなかった。

 こうして世界大会ははじまり、「六全協」の自己批判の中から党は漸く立ち直って、原水爆禁止と平和の運動にとりくみはじめた。

 

 

 以上の「八・六」の歴史の中から次のような教訓がまとめられる。

 一つには広島の原水禁運動史には前史と後史との間に歴史的な断絶があるということである。すなわち五一年までの「八・六」に見られるような、講和前占領軍の支配下とくに朝鮮戦争時における、党を中心にした戦闘的で前衛的な反帝平和の闘争と、とくに五四年以降「ビキニ」を契機に広範な大

 

 

 

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 第一回世界大会に参加した中国代表劉寧一 氏(前列中央),前列右端は高野実総評事務 局長,後列中央が森瀧教授,右端が筆者。

 

衆的盛り上りを見せた原水禁運動との間には何らの継承もなかったということである。

 前史におけるすぐれて目的意識的な運動と後史におけるすぐれて自然発生的な運動の断絶は今日の運動の中にある種の歪みを残している。広島の場合には被爆という特殊な条件によって、他の地域ではかなり意識的系統的な努力によってのみ得られる成果も、比較的容易に得ることができる。そこに広島の運動がその特殊な条件によりかかるという弱点が生まれた。もちろん、被爆の原体験を忘れたり軽視して広島の運動はあり得ない。それはいわばこの運動の最も根源的な最も基礎的な基盤である。重要なことは、この広島の自然発生的な条件を基礎に、いかに目的意識的にこれを組織し、いかに自覚されない力を自覚された力に変えるかということである。そこに前史と後史の断絶の持つ重要な意味がある。この責任は前衛たるべき党が負うべきものである。前史において専らその運動の中核となってきた党がこの運動の総括と反省を行なうことによってこそ、歴史的な継承が可能となったであろう。

二つにはその党が今日、前史に見られた国際主義と民族主義の奇妙な混合物として、またすぐれて自然発生的で大衆的な広島の運動に対する目的意識的な対立物として依然として並存しているという

 

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被爆直後の広島市。筆老が広島へ帰った頃もほぼ同じだった。〔中国新聞提供〕

 

ことである。すでに書いたように、中国地方委員会の運動は「コミンフォルム批判」以来国際主義的な立場でつらぬかれていた。ちょうど今の党がそうであるように、占領下もっぱらアメリカ帝国主義との闘争を前面に押し出して闘ってきた。今から考えれば多少の不明確さを残しながらも、それは国際主義的な反帝反戦の平和運動であった。これに対して当時の臨時中央指導部は「コミンフォルム批判」をすなおに受けいれず、「徳田テーゼ」のきわめてあいまいな「中立」論に裏づけられた朝鮮戦争への不介入という方針が、一貫性はないにしてもしばしぼ強調されていた。しかしこの中立論は今日われわれがいっているようなものではなくて、多分に中間的な、民族主義的な色合いが強かった。これはその後全面講和愛国運動として発展して、全面講和のためにも朝鮮戦争をやめさせる平和闘争が第一とする中国地方委員会とするどく対立し、すでにその規範となっていた五一年綱領の民族民主革命コースはついに極点までおし進められ、六全協をむかえた。

 ところが六全協以後とくに第七回大会以来、旧五一年綱領派と宮本顕治等の旧国際派との癒着と野合がすすみ、今日ではかつての国際主義と民族主義の最悪の部分が二乗された奇妙な混合物が生れて、大衆的な運動との間に水と油のような対立を生んでいる。これは党として徹底した討論による総括と反省を回避した独善的宮僚主義の生んだ悲劇である。

 

 

 三つには、戦後広島で原体験に根ざした広く深い原水禁運動が何故組織できなかったかということである。私が復員して四五年八月二十日頃広島へ帰った当時の新聞が、「八十年間草木も生えぬ」と伝えていたところを見れば、すでに何らかのかたちで放射能の影響が知れていたはずである。そうしてこの放射能の影響こそ、その瞬間的な殺人力と合せて、原爆が他のどんな戦争の惨禍とも異なる特殊な位置を持ち、したがってまた独自な原水禁運動をも成立させるものであった。しかしこうした放射能の影戦についてはいつとはたく否定され、このことが再び公然と発表され始めたのは「ビキニ」以後のことであった。これは何よりもアメリカ占領軍の直接弾圧と、「平和と解放のための原爆」という彼らの宣伝政策によるものであった。しかしそれにしても当時の党が意識的にこの問題を追求していれば、必ずつき当ることもあったに違いない。

 だが、「コミソフォルム批判」以前の党はアメリカ占領軍についての明確な評価を持たず、また戦時中の空白からいわゆる平和運動を軽視しあるいはほとんど無視していた。四九年十月の平和擁護広島大会にも決して熱意は示さなかった。またコミンフォルム批判以後の中国地方委員会は熱心ではあったが、それはコミンフォルム批判に忠実なのであり、この闘争を通じて党内闘争で勝利するためであったといってもいいすぎではあるまい。

 私は当時労働組合のグループとして、また個人的な体験をとおしてとくに熱心であったが、今から思えば佐久間教授等の意見に動かされながらも結局は党の決定に従って平和委員会を分裂させた。不正確ではあるにせよ革命運動と戦後平和運動の区別と関連について最初の指摘をした「スターリン論文」が発表されたのも五三年であった。今から思えば当時私が正しいと考えていた反帝反戦の平和擁護闘争も、革命運動と広い戦後平和運動との関係については結局不明確であったし、まして今日のような原水爆禁止運動というよりか、一般的な、したがって、いつ、どこでも組織できるし、組織しなければならない平和運動であったと思う。私はこの歴史から学んだ。佐久間教授から学び、「スターリン論文」から学び、「ビキニ」以来の大衆運動から学び、また、世界の先進的な平和運動から学び、「八十一力国宣言」と「声明」から学んだ。しかし歴史は逆転劇を生んだ。私や私たちとは全く反対に、この歴史から逆に学んだ人達もいる。

 ともあれ、正しく歴史から学び、大衆運動から学び、この運動の再建と統一を責任をもって推進するものは誰であろうか。今の党にこれを求めることは「木によって魚を求める」ことであろう。この責任を果すものこそ、真に前衛であろうと努力するものでなくてはなるまい。それはとりわけ私自身の責任でもあると思っている..